心を修める目標が既に明確になりましたが、どのように修め、どのようにこの心をきれいに磨くのでしょうか。これが心の中で理解する事によって、つまり悟ことです。悟りというのは納得することです。我々はいつも悟りを開こうと言っていますが、原理も明らかになって、因果輪廻、縁によることや運命の成り行きについては理解できていますが、何を悟るのでしょうか。実際、花鳥風月、一木一草のどれも悟りのきっかけになって、生活の中で起きた些細なことからさらに感得することがたくさんあります。悟りというのは、仏法を実生活に当てはめて、更に生活の中から仏法を会得するために繰り返して訓練する過程です。つまり受験準備の過程で基本の定理を応用して繰り返して練習問題をやって、更にその中から基本定理を身につけてスムーズに応用できるようになる過程です。修行の過程で、仏法を正確に応用できる度に、心の至る境地がその分高まります。一方、十回の内、最初からの九回が全部正しくても、最後の一回が間違ったら、修行は水の泡になってしまう可能性があるので、修行は「薄氷を踏むが如し」というのです。

 大勢の修行者は私の「説法」をとてもよく学んで、深く理解していて、精進しているので、これは非常に良いことです。この法門の素晴らしさが分かったと言えますが、私のブログでの質問や日常生活での応対から見れば、多くの人がまだ前世の借りを返済している段階で、仏法を学ぶことは即ち人生のあり方を学ぶことで、仏法を学ぶにはまず人間としての正しいあり方を学ぶべきだと認識できていません。沢山お経を読んでいるお陰で、性格がよくなっていますが、自ら十分反省できていなくて、自主的に自分の欠点を見つけ品行を正していません。つまり、仏法を生活の中に生かしておらず、仏法を自分の行動に結び付けていません。例えば、「戒・定・慧」についてですが、多くの人がなぜ「戒」をすべきか、何を「戒」すべきか、どうして「戒」したら、「定」することができるのか、なぜ「定」をすべきか、何を「定」するのか、これらについて、全て心から理解すべきことです。

 また普段耳慣れた事からでもその原理を悟って、それが仏法のどの基本定律から来たものか、こうすることによって、先人がそう言った理由が分かります。例えば、「忍辱能く精進す」はどの原理によるものか、なぜ「無我」を強調するのか、どんな働きがあるのか等、これらの言葉を知って、そのとおりに実行できるようにすべきで、単に機械的に使うだけではありません。その原理が分かってからこそ、一を聞いて三を知ることによって、本当に理解でき、使いこなせて、真に応用できるようになるのは、ちょうど数学の定理を運用するのと同じことです。

 ですから、「悟り」はそれほど手の届かない抽象的ものではなく、実は毎日の修行を通して自然に悟りの境地に向かっています:どのようにお経を読むのか、なぜお経を読んだら順調になるのか、「小房子(お経のセット)」はどう使うかなど、その後次第に系統的・意識的に悟りの境地に向かって、更に多くの「なぜ」を考えて、多くの仏法が分かってきます。修行する人が敢えて悪事をしないことは、法律に詳しい人が違法な事をしないのと同じで、それはすべて分かっているからです。

 修行とは何を修めるのか

 修行とは自分の行為を正すことで、その目的は悟りの最高の境地に至るため――至高の悟りを開くためです。修行には三つの要素があって、行いの規範・言葉の禁忌・意識の浄化を向上させることです。実際、我々俗世間でのつながりの中で、かなりの部分は悪縁から来る力で、また、悪業は「心・口・意」から来たので、上記の三つ規範は罪業を作らないようにするためです。行いの規範で身体が罪業を作らないように、言葉の禁忌を守ることで口業を作らないように、意識の浄化を高めることで、悪い考えを持たず、頭に悪い考えを浮かべないようにするのです。

 原理が分かると、これを基準にして、行為を正し、悪業を減らし、新たなしがらみを作らないようにします。もちろん、これを生活に取り入れたりして、またどれぐらい活かすかは人それぞれの悟る力次第です。例えば、職場で与えられた仕事の量が人より多くて、毎日仕事に明け暮れて、しばしば残業しているのに、他の人は同じ給料で、仕事が楽です。こんな時、表面上は愚痴を漏らしませんが、心の中では本当に怒らずにいられるのでしょうか。怒らないことはなぜこんなに大切なのか。怒らないから、臆病者だと思われるのでしょうか。正しい心のあり方はいったいどんなものでしょうか。

 これらは全て自分で体得するもので、ぶつかった問題に対処できた度に、その人はそれなりに心がより高い境地に至るのです。それぞれの体得によって、心の至る境地が違ってきます。体得できなければ、常に他人の仕事量と比較してしまって、不公平に感じて、次第に怒りが沸いてきて、この時悪業の種を撒いても自覚せず、かえって自分が被害者だと思って、修行の信心を失ってしまいます。「弟子入りしても、修行は本人次第」というわけで、人それぞれの生活環境が違っていて、直面する問題も異なっているので、皆の悟った答えを目の前に並べるわけにはいきませんが、幸いどんなに状況が変っていても原理が変らないもので、ある程度のルールが決まっています。それは因果関係・縁のしがらみで自分の生活を理解し、私(盧先生)の教えた法門で生活上の問題を解決し、功徳を積んで悪縁を結ばないことで自分の規範にしてください。

 修行の三つの要素では功徳について触れていませんが、なぜ功徳は修行の結果につながるのでしょうか。修行の三つの面から直接得られる結果は、良い事を行い、良い考えを持ち、悪意のない言葉を話すことなど、全て功徳につながるのです。 
 
 修心とは何を修めるのか
 
 修心とは修行して、ある段階に達してから必ず直面するテーマで、初心者や菩薩にあまり感応していない人なら、まずひたすら罪業を消し、功徳を積むことに専念してください。これはその人の罪業や前世の借りがまだ多くて、心の汚れがまだ多く残っているから、心を修めるまでの段階ではありません。ある程度罪業を消した場合、しばしば夢の中で行う試験があったりします。天檀の香りがしたり、菩薩の笑顔が見えたりなど、霊感を感じたら、次第に心を修める段階になります。これが、私が伝える「現世を修める法」と「来世を修める法」を区別する特徴です。魔性は心によって生じるもので、この心の魔性は罪業と切っても切れない関係です。今、私たちが前世の借りを返済してから心を修めるのは、重荷を降ろしてから出発するようなものです。どの法門の修行も心を修めますが、私の教える法門は、心の汚れを減らし、心の魔性を取り除きやすくして、その結果、心が清らかになり、高い境地に至るのです。
 
 修行の三つの面から更に言えることは、行いの修行と心の修行とは密接な関係にあり、自分を正そうとするなら、まず自分の行いのどこが正しくないか自覚することです。この「自覚」の過程はつまり心を修める過程で、自分の心身の過ちを反省して、徐々に心の境地をより高い次元に高めます。心の修行には決まったルールがありません。それぞれの業の状況が違っているので、修行の過程で出会う障害がそれぞれ異なっているので、心の修行は千差万別です。しかし、全ての法は一つの同じ目標に到達するので、修心の道がいくら違っていても、最終の目的は一つなのです。それは仏心・菩薩心につながることで、仏の心はすなわち衆生の心で、菩薩の心は慈悲の心です。ですから、絶えず自分の心を省みて、仏心・菩薩心に照らし合わせたら、心の中で正すべきところに気づき、次第に自分の行為を直していくのです。

 仏の心は無我無心に衆生の苦しみに思いを寄せる事で、菩薩の心は慈・悲・喜・捨です。これらはどちらも至高の境地に達するもので、我々の目指すところであり、最終的な目標でもあります。心の修行の始まりはまず心を正す事にあり、心が清らかで、穏やかになる境地に至ることで、つまり、実生活では、わが身の悪癖を探し出し、「貪・瞋・痴」の三つの毒素を取り除き、我執と他執をも取り除いたら、心が穏やかになり、ひたすら修行に専念できて、心を清らかにする事によって、次第に見性できて、我々の本来の仏性――良心、善心も含めて、更に大きく育んでいき、やがて、慈悲心にまでなるのです。

 心が清浄なこととは何か
 
 心を正す事は心を修める出発点ですが、人によって正しさに対する見方が違っています。誰かと敵対したら、どちらも自分の方が正しいと思い込みます。これが最初に直面する課題になっていて、「正しさ」とは何か。どうすれば「正しく」なるのですか。自己中心的な人は「人は皆こうするんじゃないの」とか言うし、しょっちゅう妻と喧嘩する人は私のことをかまってくれないとか言うし、80歳の母親と10年も行き来しなかった息子は堂々と「昔妻を酷く虐めたよ」と言ったりします。こういう状況なので、十年もずっと自分が間違っていないと思っている人なら、いきなり反省することはないでしょう。何が反省のきっかけになるのでしょうか。きっかけとしては大体外部から来るもので、ある法会で私(廬先生)のある言葉や、電車に乗っている時ふと気付いたことや、また息子が年老いた母親を支えている姿や、同僚が話した隣の人の出来事などもはっと心に響いて悟るきっかけになります。しかし、こちらのきっかけは功徳の積み重ねによるもので、いわゆる「多くの蓄積によって変化が現れる」ことです。お経を読んだり他の善行をしたりして功徳がこの次元に達して初めて反省するきっかけにつながります。この次元こそ「正しくないこと」になった罪業を消したのです。心の中で本性を覆い隠す汚れを拭き取ってこそ、「自己中心ではない」本性が現れます。本性である「愛と寛容」、「孝」なども現れるのです。

 同時に、心の中でこれらの汚れ:つまり貪・瞋・痴という元がまだ残っているのを認識すべきです。人生の不如意は十中八九あって、この十中八九のほとんどは貪・瞋・痴から来るものなので、「三毒」と言われるのです。例えば、自己中心の自分はいけないと反省したばかりに、会社での昇進競争で負けない気持ちで、自分を置いて他にはいないと争います。親孝行で年老いたお母さんを呼び寄せて、これで十年に亘る冷え切った関係を修復しようと思っても、お母さんの何かの一言でまたカットなって、芽生えた僅かな善の本性がまた跡形もなく消えたのです。

 「三毒」を消さないと、心を修めることは労多くして功少なしで、一寸も進めないことすらあります。たとえ名高い修行者でも「三毒」を消し切れない可能性もあります。これについては、本人しか解決できなくて、他人のアドバイス、手助けなど外からの力では大きな役割が果たせません。たとえ私(廬先生)の直々の教えで貪・瞋・痴を止めてくださいと言っても、本人が看破できなければ何もできません。情に溺れた男女がたとえ縁が切れていても未練がましく、栄華富貴を極めても現状に満足できなくて一か八かの勝負をして、限りなく欲張っているのは、看破していないという事です。人生は苦しくて短いもので、一刻一刻の考えは常に無常である事が看破できていないのです。縁や因果については分かりますが、自分の事となるとまた別になります。縁の始まりと終わりは全て幾世もの前世の因果によるもので、時間が経つにつれて変わっていくし、縁が切れると、その分の俗世間でのしがらみがなくなるのですが、自分の事となると、この世の全ては風に散る花のようで、全て夢幻だと思わなくなるのです。裕福な運命である事は幾世もの前世での善行によるものですが、裕福な運命を望むなら功徳を積むことに励んで来世での栄華富貴を期待しましょう。ですから、「三毒」の害は心を修める過程に絶えず付随しているもので、心を修める人にとっていつも直面している最大の試練でもあります。

 「三毒」に対抗する秘訣はほかでもなく、「戒・定・慧」がキーポイントです。つまり、まず自分をコントロールする事で、自分が自らよくコントロールできると心が定まって修行が続けられて、いつかは看破できる日が来ます。これが智慧を得たということで、それ以後もはや毒ではありません。また次の段階に入ると、「三毒」はまた違った誘惑として現れて、富を求めるのを諦めましたが、高い地位を求める誘惑が現れて、地位を求めるのも空しく感じたら、今度は異性の誘惑に惑わされ、肉体的快楽も見破ったら、また更に名誉の誘惑など様々な形で惑わしに来るのです。

 誘惑だけでなく、人生には人それぞれの悩みがあって、国の事から家のことまで大なり小なり、心を悩ますことが様々あって、悩むと心がふらついて、一々引きずられたら、心を修めるどころではありません。

 この世に生きていれば、どうしても他人と色々かかわってきます。自分は自律をして悪縁を作らなくても、周りの人から何か絡んでくるかもしれません。もし誰かが自分に因縁をつけて、つまり自分が不平、アンフェア、誤解、ひどい場合は侮辱・罵倒された時、「忍辱精進」をすることこそ清い心を守る方法です。「忍辱」は意気地なしではなく、悪縁を「受け」ない唯一の秘訣なのです。誰かに悪縁の糸を発射されて、それで自分がむきになったら、このしがらみが自分の体にまとわり憑いて、この瞬間から、悪縁の因果が作られてしまうのです。「忍辱」して、この「悪い気」を受けない事で、初めて悪縁を断ち切ることになります。表では「忍辱」になりますが、本当に修めているのは心の中で波紋を起こさず、外部の侮辱などはそもそも存在しないものと見なす境地です。つまり心の中で「環境が変っても心が揺るがない」境地に至るように修めるのです。

 更にもう一つ「執着」を心から取り除くことが大事です。「我執」にせよ「他執」にせよ、どちらも物事に対する理解が不完全なことからくる偏見なのです。人々の経験や生活で感じたことが違うので、人それぞれこれが正しいと思い込む偏見が生まれるのです。「執着」があるので、物事に対する認識や理屈にあれこれのずれが生じることは推して知るべしです。問題は、自らは偏見だと思えず、この“真理”に騙され、そのまま続けていく事です。根本的に解決する方法は「我」を取り除くことで、「我知我見」によって仏法を理解しないこと、つまり、いつも言われるように「弁証的・全面的」に問題を見て、実生活の中に生かして仏法を理解するのが大事です。

 常に心を拭き清め、罪業を消し、憂うつや誘惑などの汚れがつかないようにして、「心の浄め」が得られ、清らかな心を持つようにするのは、本性を明らかに現すためです。ある程度まで心を清めたら、本性の大半が現れてきて、汚れに覆い隠されなくなるのです。この段階になると、これらの本性を大事にケアして、それを大きく育てて、二度と見失わないようにしてこそ、本格的な修行がスタートするのです。

 それなら俗世間を離れないと、心の清らかさが得られないのでしょうか。俗世間は心を修めるのに一番良い道場で、心が清らかでなければ、たとえ山奥に潜んでも相変わらずあれこれ俗世間の悩みから抜けられません。心の清らかさを求めるとは、皆さんに俗世間での全ての事を捨てて、縁も切って、ひいては縁から逃れるために人との付き合いもしないのではなく、ここでいう「浄」とは、清潔で、純粋で、汚れた悪い癖や縁に染まらないことですから、心の清らかさは修行で得られるもので、俗世間から逃れるだけでは得られるものではありません。

 心が定まるとは

 人は皆それぞれ仏縁を結ぶきっかけが違っています。ある人は私(廬先生)の法会に一度参加す
るだけで、仏縁を結んで修行をし続けます。ある人は私の番組の録音を聞いて、自分に当てはまる事を、私の教えた方法で実践して効果が出て、嘘ではないことが分かって信じるようになるのです。きっかけはどうであれ、信じたので心が定まったのです。しかし、この定まりはまだ一時のもので、自分の病気が治ったり、口が利けない子供が口が利けるようになって、仏法の素晴らしさが分かっていても、自分は忙しくて、お経を読む時間がないとか、最初は頑張るが、だんだん怠けてくるとか、或いは教えられた通りにするだけで、自らさらに習ったり、悟ったりしないのは、本当の定まりではありません。また失業したり、恋愛の悩みがあれば、またどうしたら良いか分からなくなります。或いは以前教わった方法で一ヶ月で仕事が見つかったのに、今回同じ方法でやったけどできなかったのはなぜか、なぜ自分の恋愛問題には盧先生から教わった方法で半年経っても相手が現れていないとか、仏法を疑うようになるのです。罪業があればこそその分しがらみになります。そのしがらみによって、「我」がしがらみに引っかかって心の落ち着きがなくなります。ですから、大乗仏法(衆生を救済する法)を修めるには小乗仏法を基礎にして、まず自分と自分の家庭の問題を解決するように修めて、「心無挂碍」だから、「無有恐怖」に至って、そうしてから心を修めて他人を救済する段階に入るのです。

「心が定まる」には意味が二つあります。一つは、強い信念を持つ事、もう一つは、揺るぎない目標を持つ事です。それは仏法の原理をわきまえる上で、世間法と出世間法の違いや、因果と霊の世界の真実をよく理解して、さらに運命になぜ山あり谷ありなのか、また善縁、悪縁、業の力、しがらみの関係などをよく理解した上で、落ち着いて心を定めて修行できるのです。同時に菩薩が慈悲深く、限りない力があって、真実に満ちていて、私たちの願いに応じて苦しみから救ってくださる事が分かった同時に、自分が毎日欠かさずお経を読むべきです。こうしてこそ目の前の苦難にはそれなりの訳があると納得でき、大変な状態でも長続きしないものだと確信したら、心が環境に左右されず、環境が変っても心が動揺せず、ひたすら悟りの境地に至るのです。もちろんこれは悟りのレベルが高い境地で、誰でもできるとは限りませんが、少なくとも目指すべき方向がはっきりしてきて、この方向に向かって努力できるのです。修行の成果はどうなのか、最期を迎える時、その成果が初めて分かるのです。

 心がふらついたらさ迷うし、心が清らかなら落ち着きが得られ、落ち着いて心が定まったら仏道への道が開けます。

 つまり、仏法は即ち人生の生き方を導いて、人生での正しい生き方によって、即ちそれが仏法の実践になるのです。仏法を人生に生かして、人生の中で仏法の奥義を常に会得し、根気強く努力すれば、やがて悟りの境地に至るのです。

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