まず、仏法教育とは私たちが本来持っている智慧と徳能を取り戻すことだと言えます。修行は簡単なことではないのを知ってもらいたいのです。真心(まごころ)と自らの行動によって修行し、修行によって我が身の自覚のない悪習を取り除くことです。それらの自覚のない悪習を心の中や生活の中にそのまま放っておかないでください。私心と戦い、雑念を消すようにして、自分の世界観や人生に対する間違った考え方・言い方・見方・やり方を正しましょう。心の修行をするには清浄心を修めることです。清浄心は何より大切で、心が清らかになれば、一切の妄想・執着・邪知・邪念をすべて取り除けます。清浄心があれば智慧が生まれます。心が清らかになれば、体も清らかになるし、心身ともに清らかになれば、人は清浄な境地に至ります。

 「人々の平等」について:この平等というのは、何を基礎にしているのかとても重要です。この世界に絶対的な平等はありません。見た目には人々が平等なのはなかなか難しいです。実は、この平等というのは、本来の魂を基礎にしているもので、心の持ち方によってバランスを取るのです。平等心は後天的な心の持ち方によって整えられて補われるのです。智慧を使って心の妨げが解消できるのです。例えば、社会において、幸運に恵まれる人もいますが、惨めで貧しく落ちぶれる人もいます。また、家庭では、夫と妻で役割に多い少ないがあります。これらはみな平等心に関する試練です。

 「親に孝行することと師を尊敬すること」について:どうして親孝行と師を尊敬することを一緒にするのでしょうか。
一日の師でも父親のように一生尊敬すべき人だと分かってほしいです。どうして親と師を一緒にするのでしょうか。師は自分の心と魂で皆さんを育み、自分の「気場」で皆さんを守りますから、簡単にはできないことです。自分の両親でもできないことが師にはできるのです。両親は育ててくれましたが、師は私たちに仏道を歩ませ、私たちの心を救って、人生を無事に過ごさせてくれるのです。霊からくる病気は、両親が救えるとはかぎりませんが、師なら救ってくれます。ちょうど観世音菩薩が衆生を救うようなものです。ここでいう師とは、盧軍宏先生だけではなく、私たちを正道に導いてくれるすべての菩薩のことです。

 「孝と敬」は性徳で、これこそが私たちの自性を開いてくれるのです。「師道」は仏陀の教育であり、「師道」は「孝道」を基礎として打ち建てられます。「孝道」がなければ「師道」を語ることはできません。皆さんは必ず師を尊び、道を重んじましょう。そうして初めて修行を成就することができるのです。

 「意見を調和させて理解を共有する」について:つまり共通認識(コンセンサス)を持つことです。人々は真心を込めて、妄心を持たずに付き合うことです。というのは、人の妄心は常に変わるもので、真心で付き合えばこそ意見を調和して理解を共有できるわけです。真心には妄念がありません。
 自分が持っているすべての分別や執着を捨てることを会得してください。例えば、今日二人の弟子が話しましたが、観点や意見が違っていたとします。それでは、どのように意見を調和し理解を共有したらいいのでしょう。それは菩薩の智慧によって和解するべきです。皆さんはこのことが会得できたら、どんな場合でも違った矛盾が解消できるのです。これは非常に奥深い学問です。つまり、見解を共有すべきです。何か問題があった時、認識が共有できてこそ和解できるのです。もう一度言いますが、「解」は決して自分を抑圧するのではなく、どんな怒りも抑圧せず、解消するように会得しましょう。
 解消することは最高の境地で、自制や抑圧ではないのです。中国には「忍」という字がありますが、つまり、どんなことでも耐え忍んだりしますが、それは一時的なもので、最高の境地ではありません。皆さんは『忍者亀』という映画を見たことがありますね。行きつくところまで忍んで、彼は心に一振りの刀を思い浮かべ、いつの日かこの刀で心をズタズタにしてしまうのです。もし、皆さんは意見が食い違ったら、解消する方法を身につけて、まず自分の見方を話して、それから智恵の力で矛盾を解決しましょう。

 さて次は皆さんに「和を以って貴しとなす」の「和」について説明しましょう。「和」は、ご存知の通り「平和」です。「和」というのはつまりすべての原点です。多くの人は、「和」という言葉は、人と仲良くやっていくことだとか、平和共存だと思っています。もしあなたが非常に正しい発心から問題を解決するなら、どんなことでもすらすら解決できるでしょう。だから発心はとても大切です。「和」こそ私たちの考えや生活方式を次第に近付けることができるのです。

 佛法聞き難し:優れた師はなかなか遇えず、正法はなかなか聞き難いです。この末法の世で、たくさんの人があちこちへ行って、菩薩を拝み、焼香し、入門しに行きます。中国では今仏教を信じている人が多いですが、本当に読経の意味が分かっている人がそれほど多くないでしょう。ご存知の通り、菩薩を拝んでいますとか、信じていますとか言っています。以前話したことがありますが、佛を拝んでお経を上げないのは佛を拝まないのと同じです。菩薩の名前すら知らず、何も分らずにどうして菩薩の救いが得られるでしょう。私はいつも皆さんにあるたとえ話をしています。私はこの学校が好きで、敬意を払っていますが、自分では勉強も努力もしないで、どうやって大学に受かるでしょうか。つまり、こういうことです。

 「佛法聞き難し」はこの末法の世において、菩薩の真諦を得ようとしたら、また観世音菩薩の加護を得ようとしたら、真の佛法を探し当てるべきです。今、菩薩に習うのは難しくて、仏に習うのは更
に難しいです。菩薩は悟りに至って智恵に満ちるもので、仏は覚悟であり、無上正覚なのです。人が悟って、正覚を得たときは、菩薩になるのです。仏になろうとしたら、無上正覚を悟らなければなりません。

 多くの人が自分はちょっと菩薩を拝んだり、ちょっとばかり本を読んだから、それで佛法が分かったと思っています。どんな本を読んだのですか。どんな法を聞いたのですか。その中の論理が分らなければなりません。私はいつもみなさんに言っていますが、お釈迦様がインドで佛法を広めた時、いつも弟子たちを連れて、彼らにそれぞれ鉢を一つずつ持たせて、一軒ずつ乞食(こつじき)して廻らせ、佛心を養わせました。原理はこうです。第一に、一般の人が布施できるようにして、慈悲心を起こさせるのです。ノックの音がしたら、「あ、お坊さんが来た。南無阿弥陀仏、何かあげよう。」これが布施する心を養うということです。第二に、お坊さんの多くは貴族や商人です。得心して髪を剃って袈裟を着たのですから、お釈迦様は彼らの慈悲の心を養い、彼らに自我を捨てさせ、傲慢な心を捨てさせ、自分が普通の人間で、衆生と同じように平等であることを感じさせるのです。今、お寺のお坊さんたちが路上で乞食しているのは滅多にないでしょう。ある高僧がこう言ったから、昔ある有名な修行者がこのように修行したから、私たちも彼らのようにしなければならないと思われますが、修行とは真の自我と佛性を見出すことです。
 今の修心法は変えるべき所があって、改めるのは仏法ではなく、方法だということです。修行は心を修めることです。この末法の世
では、大乗仏法を学んで人を救うことです。人を救うときに本当の智慧と力が得られます。私が天眼を開いてから短い間にこんなに多くの人を救えたのはどうしてでしょう。こんなに強大なパワーを得たのはすべて修行したおかげで、観世音菩薩から授かったのです。人がしっかり人を、人を救済し、この正道正法を人々に伝えさえすれば、菩薩はきっと巨大なエネルギーを与えてくれるのです。こういうわけです。末法の世に、観世音菩薩は様々な人に化身して皆さんを救いに来るのです。現に私も皆さん一人一人を救いに来ているのです。皆さんにお経を読むように、どの家庭もよくなるように、人を救い仏教を広め、衆生に利益をもたらすのです。

 無上正等正覚:つまり佛菩薩です。師父がいま皆さんに教えるこのこの法門は無上正覚で、佛菩薩のところから来たもので、修行の最高の境地です。観世音菩薩はいつも私の身を借りて、私にどのようにラジオ局で人を救うか教えてくださいます。いま多くの法門がひそかに伝わっているのをご存知だと思いますが、私はいま皆さん一人一人の智慧を啓いて、観世音菩薩がどのようにこの世の人を救済するのか教えましょう。例えば、ある小さな島が水害に見舞われたとしましょう。飛行機が来て、航空母艦も来ましたが、わずか何人しか救うのではなく、やはり全員を救うのですよ。しかし、その時多くの問題にぶつかって、老人や虚弱者が航空母艦に乗り移る時に海に落ちてしまったり、あるいは心臓発作を起こしたりして、こういう人たちはとても可哀そうで縁がない人で、ちょうど、仏法を聞いたことが無い人のようです。本当に人を救うのは大衆向けの仏法で、仏法を知ってもらうことで人が救えるのです。偉大なお坊さんは人知れず仏法を広めて、公明正大であまねく人を救っているのでしょう。
ですから、何が「正」なのかちゃんと理解しましょう。「正」はつまり陰陽五行が調和してできているのです。いま、皆さんにこの「正」の字を説明しましょう。上の横一が「金」で、下の横一が「水」です。真ん中の縦画が「木」で、左の縦一が「火」で、右の横一が「土」です。ですから、本当の無上正等正覚も、つまり究極の円満な智慧であって、皆さんにどのように真実の道に辿り着くかということです。
 
 皆さん、この末法の世に、「正」なるものは、検証に耐え得るもので、何度でも霊験があるので、ぜひ仏法を広めるべきです。もし、あなたの器で受け入れるなら、これらの仏法が理解できます。
仏縁を受ける器がなければ理解できないし、たとえなんとか伝えようとしても伝えられません。受ける器が違って、前世での修行の違いもあるので、受けられるパワーも違ってきます。末法の時期に、最も正しく、最も確実で、最も問題が解決できる道を探さなければなりません。もし人が末法の時代に観世音菩薩に守られて救われて、自分の運命を好転させないと、こういう人は、哀れだとしか言いようがありません。
 
 究極円満の智慧:これはつまり宇宙と人生の真相に対して少しも迷いがない事です。もう少し分かりやすく言えば:もし私たちが非常に冷静に考え、観察すれば、円満に問題が解消できるから、これがつまり円満の智慧なのです。智慧が円満でなければやる事が中途半端になり、智慧が円満ならどんなことでもうまくいくのです。

 分かってほしいのは、子供であれ、親であれ、もしあなたが普段から親に孝行して、年寄りを敬って子供を大切にすれば、将来自分の子供も孝行してくれるでしょう。これが因果応報というものです。この世の応報です。多くの人は応報というのは死んでからのことだと思っていますが、実際は生きている時から、もう現世の応報が始まっているのです。道端で乞食をしている人を見てごらんなさい。ボロを着て汚いですね。現世の報いではありませんか。現世の報いは影のように付き従ってとても早く現れ、度を越えたらすぐに現世の報いが現れて、悪事は度を超えなければ、来世で報いを受けます。もし度を越える悪事をしたら、すぐに報いを受けるのです。だから、何をするにも度を越えてはいけません。そうでないと災いに見舞われます。

 ある人たちは心を修めて、誠心誠意で、優しい心の持ち主で、どこのお寺に行っても菩薩を拝みますが、もし現世でよい師父に巡り逢えず、目標が分からなければ、ただの仏教信者にしかすぎません。たとえば:毎日観世音菩薩を拝んでも、観世音菩薩についてあまり良く分からなくて、観世音菩薩の智慧を学んで、観世音菩薩の「気場」に通じて自分を修めることが分からないままでは、日々この世で苦しんでも、その訳が分かりません。また多くの人たちは災いに見舞われてから仏を頼りますが、それは、いわば苦しいときの神頼みなのです。もしよい師父に巡り会わず、正しい目標が分からなければ、今直面している問題は解決できないのではないでしょうか。
 
 修行では、福徳と智慧の両方を修めることです。善事をするのは福徳を修めることで、慧はつまり智慧のことで、智慧は普通に修めても得られないものです。これが最も大切なことで、智慧があればどんな問題でも解決できます。智慧を開こうとしたらお経を読んで功徳を積むしかありません。戒律を守ることで心が定まり、心が定まれば禅定が得られて、禅定が得られてはじめて智慧を開けるので、ぜひ心身ともに清らかで安らかにすることです。だから「戒に因って定を得、定に因って慧を開く」と言われるのです。仏教には五つの戒律があります。「不殺生:殺生しない、不偸盗:盗まない、不邪淫:不倫、浮気しない、不妄語:嘘をつかない、不飲酒:酒を飲まない」の五つです。仏教信者だけがこの五つの戒律を守るべきだとは考えないでください。一般人でも、みだりに殺生したり、好き勝手に淫らなことをしたり、盗んだりしてはいけません。皆さんに分かってほしいのです。どうして仏や菩薩はお酒が良くないと言うのでしょう。お酒は人の体に大きな害をもたらし、理性を失わせて頭をぼんやりさせ、やる気を無くさせるからです。法的には「酒を飲んで事件や事故を起こすのは犯罪です」という張り紙がしてあります。これは仏法が正しいということで、仏法はどうして人の心
に深く入り、理解されるのでしょうか。それは、正しいから人々に擁護されるのです。

  転迷開悟:迷いとは何でしょうか。名利、酒色、財、気、貪、瞋、痴の迷いです。
もしある人が貪欲で、その人の欲望が永遠に満足できないなら、最後には餓鬼道に落ちるのです。愛欲に溺れるのは、一切の罪悪の源で、愛欲が満足できないと恨みが生じ、煩悩が生まれてしまって、最後には地獄に落ちるのです。「愚痴」の人は無知蒙昧で、金儲けや詐欺ばかり考えて、人助けをしない人なら、将来畜生道に落ちるのです。畜生は自分の姿に執着するから、いつまでも畜生道を輪廻するのです。「愚痴の人」には智慧は開けません。

  私が皆さんに話したことはすべて正法、正道、正信、正念及び正時で、皆さんに迷いから脱し悟りを開き、自分の苦しみから脱し、真の喜びにたどり着くように願いたいです。

 弟子の感銘したこと:良き師に巡り会うのは難しいですが、今日私たちが盧軍宏師父に出会えたことは本当に大きな果報で、輪廻を繰り返す善根、福徳、因縁の果報であり、非常に得難いものです。これは大切な縁で、私たちはこの縁を大切にしっかり修行し、師父の無量の大慈大悲心を学び、煩悩を断ち切り、菩提心を起こし、一品(いっぽん)無明を破り、一分の法身(ほっしん)を証し、師父に従って仏法を弘め、あまねく衆生を済度し、人々に法悦が満ち溢れ、一人一人がみな真に成就し、功徳が円満になりますように。

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