古今東西「運命のレバーを執るぞ」と叫んだ人がどれぐらいいるか、一生懸命努力しながら、結局は運命の前で挫折し、あっさり降伏してしまった人がどれぐらいいるか、数えても数えきれません。メールで「『了凡四訓』を読んだら、すっかり消極的になってしまった。運命は最初から定められたものなら、努力してもしようがないだろう。来るべきものは来るし、得られないものはいくら努力しても得られないだろう」という内容を寄こした人がいます。人間における悲劇の多数が「運命」の二文字に帰結され、運命こそが人間の種々の苦しみの源のように思われています。事業の下り坂、愛情の喪失、子供の病気、家庭のもめごとなどを、軽々しく運命のせいにします。あくまで我々自身が運命に翻弄される被害者で、我々自身が上のような出来事に対して一切責任がなく、それらを変える能力もないように。実をいうと、我々こそ自分の運命の書き手であり、我々でしかそれを変えることができません。運命は輪廻の一環にすぎず、輪廻に入る度、新しい舞台に上るようなものです。新しい環境で演じる役柄を切り替え、自分の書いた脚本に沿って、機械的に演じ続けるだけです。そのとき、自分が書いたこと、何を書いたかということを忘れてしまうのですが。

運命の基本法則
 運命とは現世の受けるべき果報が繋ぎ合わさった道です。輪廻と言い、運命と言い、その運行は二つの基本法則に沿っていて、ぐるぐる廻っていて、衆生がどのようにしてもその中に取り込まれているのです。この二つの法則は輪廻の根本根拠で、その前では、衆生が一律平等で無差別です。

 一つ目は宇宙の第一法則:因果法則。即ち皆さんが周知している因があれば必ず果がある、播いた種によって、しかるべき果実があるということです。因果法則は三千大千世界が沿わなければならない定則で、その因果応報の循環を阻止することはできません。だから、今あなたが姑に悪い態度を取ると、それが悪の種になって、来世には夫婦仲が悪いという悪果を招きかねません。前世の殺生が多ければ、来世には病魔に取りつかれることになるかもしれません。因があれば、必ず果が生じます。どんなスーパーパワーもそれを抹殺することができません。前世のたくさんの悪行によって、血液病という果報が待っているとしたら、どんな力でもそれを阻止することができません。助けとしてスーパーパワーが現れたとしても、現世の悪果が妨げても、来世には必ず返してもらわないと済みません。もちろん、あなたの代わりにその悪果を肩代わりする人、または力が出現したら、それはまたあなたの善果の問題が絡んできます。別の因果問題となるのです。その計算の仕方が複雑ですが、必ず因果法則に沿うもので、最終的にはあなたが播いた因によって、それにしかるべき果が実るのです。

 二つ目は天理です。天理循環して、必ず報いがあるというのは、ただ口頭で言うだけのものではありません。天理は実質的に管理制度のシステムで、どんな因にはどんな果があるのか、どれぐらいの因にはどれだけの果があるのか、いつ果が現れるのかなど、詳細に規定しているのです。天理は個人の因果応報を決めるだけではなく、地域、時代、国家ひいては世界の因果応報も決めているのです。天災と人災は共業の悪果で、地球温暖化はその良い例です。全ての物事は天理の管轄下にあります。だから、一個人がある時刻に悪行を一件行った、または悪の念を生じたならば、天理によってそれが受けるべく果報に自動的に計算され、業障となって来世の某月某日に現れるように規定されるのです。同じように善行功徳も自動的に加算され、特定な時期に善果となって出現するのです。

 だから、我々が時々刻々に念じるもの、行った行為は、播いた因となって、天理の規定によって時間順に配列された果に転じるのです。この線をつなげていくと、来世の「運命」になるのです。ただし、我々は善行も悪行もしていない時期もありますが、それがつながりの中の空白部分となります。人の生涯には、入学、試験、卒業、好い相手、事業の好転、良い機会、出産、などを待つ時期がありますが、それが空白部分です。その尽きそうもないような待ち時間は、時間の無駄であり、人生の無駄でもあります。

前世の業障はいかにして現世にもたらされるのか
 人間は誰でも罪を伴って生まれてきたと(特に西洋の教義の中で)よく聞きますが、それは事実でしょう。では、なぜ生まれたばかりの清らかな赤ちゃんは罪を負っているのでしょうか。その罪はどこから、どうやって来たのでしょうか。数多くのリスナーの皆さんの中には、子供が生まれて三年は、若い親御さんが一晩も熟睡したことがないという例がいくつかありました。子供が湿疹にかかっていて、同時に夜中によく目覚めるからです。このような状況は原罪論のいい解釈になります。実は下界に存在する全ての人には業があります。業はいわゆる「罪」で、それがなければ、下界に生まれることはありません。だから原罪論は合理的なものだといえます。

 受けるべき悪果が天理の配列によって業障と転じれば、コンピューターのプログラムのように全ての情報を記載し、人間の魂に潜伏するようになります。トーテムから看ると、ある特定ポイントにある黒い気です。悪行を一件、また一件と行うと、その黒い気があちこちに現れます。この世に生まれる時には、その黒い気が魂によってもたらされると同時に、既定の時期に表に出てくるのです。これは業障の随行方式で、所謂「影の如く寄り添う」ことです。ある地域や国家の人が善行を行わず、業ばかり造っていれば、同じように黒い気が形成され、天の時と地の理に影響し、悪果を受けるのです。

 では、業障がまだ現れていない状態でも我々に影響を及ぼしますか。その答えはもちろんイエスで、しかもその影響は大きいものです。魂にとり憑いた黒い気は腐食剤のように、刻々と我々の身体を浸蝕し、気脈の流れを阻害し、神経を圧迫し、我々の精神と心理状態に影響します。だから人の病気も霊によって引き起こされるものと業障の付き纏いによって引き起こされるものに分かれるのです。それだからこそ、盧先生はいつも霊による病と業障による病とを区別して言うのです。
業障の変化には二つの方向があります。相殺されるか霊となって現れるかの二つです。霊はというと、業障によって転じてきたものもあるし、外部からもたらされたものもあります。問題は、業障はある因果関係の中の果ならば、除去されることができないはずです。では、どうして相殺されることができるのでしょうか。また、何がこの果を相殺することができるのでしょう

どうして佛法を修行したり、菩薩を拝んだり、お経を読むことが業障を相殺できるのか
 業障はある因果関係の中の悪果で、同時にそれはあなた自身が播いた因による当然の果です。だから、あなた自身の善因によった果でしかそれを相殺することができません。それ以外のどんな力でも業障を変えることができません。ここでいう善因は即ち功徳のことです。だから功徳は業障を相殺することが出来ます。(詳しくは『白話佛法』類「大きな善事と功徳の区別について」を参照)

 修行とは何を修行するのでしょうか。心を修めることです。清浄心、分別心、善心、平等心、慈悲心を修め、妄心、貪・瞋・痴、執着心を除去するのです。周知のように、善と悪は紙一重で、心が正せ、善心が修めれば、悪因を播くことなく、悪果を避けることが出来ます。だから心を修めるのは佛道を修行する第一の趣旨です。

 お経を読んで、菩薩を拝んだら、菩薩があなたの業障を除去してくださるという意味ではありません。お経を読むことと菩薩を拝むことが功徳になるからです。「果報不可思議」、「成就不可思議功徳」。普通の場合、功徳は天理によって自動的に配列されるわけで、進んで特定な業障を相殺することがありません。菩薩の前で慈悲を求め、仕事や恋愛の順調などをお祈りしたら、菩薩がその神通慈悲を用いて、あなたの功徳であなたの仕事や恋愛を阻害する特定な業障を相殺するように働き、あなたが順調になるようにさせてくださるのです。あなたの功徳と菩薩の慈悲神通の両方揃っていなくてはなりません。でも、その基本になるのはあなた自身の功徳です。一つの善果によって一つの業障を相殺するのです。一生懸命菩薩様にお祈りしながら功徳もなく、お経も読まなければ、菩薩にしてもあなたを助けることができません。同じことで、業障が深くて、功徳が浅ければ、成功することもありません。

実生活に応用するには
 以上のようなことが分かってくれば、時間を惜しんで、利用できる全ての時間を利用して修行し、功徳を積み重ねるようにしなければならないと自覚できるでしょう。同時に、功徳と業障の関係が分かったら、自分の業障によって自分にふさわしい短期的な修行目標を立てることができましょう。業障が深い場合、どんなことをしても順調に運ばないし、どんなに菩薩にお祈りを捧げても、どんなにお経を読んでもよくなりません。これは業障が身に付き纏って、非常に大きい阻害です。この時は集中して業障の帳消しに勤め、「小房子」(お経のセット)をたくさん読んだほうがいいでしょう。業障が浅い場合、お経を読むとすぐに効果が現れるし、菩薩にお願いするとすぐに叶ったら、それは本人の功徳と修行によるものです。このときは目標を高めるべきで、心を修め、功徳を積み重ねることが重要となってきます。

 これらのことが理解できれば、自分の運命がどうやって形成されるか皆さんは分かってくるでしょう。今から天を恨み、人をとがめるのと、責任を回避するのをやめて、修行に専念するべきです。全ての待ち時間を、お経を読むことと功徳を積むことに利用すれば、来世また下界に生まれたとしても、毎日のようによい果報が待っていて、天上界で生活しているのとそう違わないでしょう。

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