我々の修行の過程で、常に四つの文字を胸に刻んでおく必要があります。それは「(如踏薄氷)薄氷を踏むが如し」です。この四文字は修行の道の艱難辛苦を適切に表現していて、同時に我々が修行の際常に保たなければならない心境を表しています。初心者は誤った道に入りやすいし、修行の高い人でも些細な不注意によってこれまでの努力が水の泡になってしまう可能性があります。佛門に入ったばかりの人が常に注意しなければならないだけではなく、佛道に踏み入った全ての人は常時自分の心を省みなければなりません。それであらゆる内心の魔と外部の魔に勝ち、修行の目的が達成できるのです。

 阻害、障害、誘惑のいずれも、それを感知できるのは我々の心で、それを理解して結論に達するのも心で、最後に反応して決定を下すのも心です。これは万法が心に由来し、佛道を修行するのは心の修行と言われる故です。行為を修めることは心を修める補助的なもので、心を修めることよりずっと容易いことです。お経を読むこと、善行をすること、功徳を積み重ねること、布施すること、自分の行為を修正することなど、多少の差こそありますが、力の及ぶ範囲では誰でも出来るのです。修行の基礎は心の境地次第によると言っても、リスクはずっと低いのです。逆に心を修めるのは常にリスクを背負っているのです。

 心を修めるというのは何を修めるのでしょうか。実をいうと「認識と理解」を修めるわけで、そのうえ正しい道を選ぶことです。なかには、宇宙に対する認識と理解、因果定則と天理に対する認識と理解、輪廻規則に対する認識と理解、各界に対する認識と理解、地獄の苦しみに対する認識と理解、原霊の生存規則に対する認識と理解、「亡くなる時、業障以外何も持っていくことができない」ことに対する認識と理解、などなどが含まれています。もう一つ、最も重要なのは法門に対する認識と理解で、まとめて言えば、佛法の基礎に対する認識と理解です。

 以上のような真理に対する認識と理解が深ければ深いほど、真理自体に近づくことができ、心はより「明白」になるのです。それでいて、遠回りせずに、心境を開くことができるのです。これらのことが分かると、清浄心を得ることが出来ます。なぜかというと、世間の悩みなんて取るに足りないもので、世間の名利は実は短い間のものにすぎないと分かるからです。因果と天理が分かれば、「善心」を修めるべきだと分かってきます。如何なる邪念でも悪業を生じ、悪縁を引き起こしてしまうからです。さらに、時間をかけてそれを除去しなければなりません。地獄の苦しみが分かればわかるほど、悪を行わなくなります。どんな悪行も悪報から逃げられないからです。因果と輪廻が分かればわかるほど、佛を学ぶことと修行する信念が固まってきます。佛法が最終的に自分を苦しみから救い、楽を得ることが出来ると分かるからです。法門に対する認識と理解が正しければ正しいほど、修行の良い効果を得ることができ、軌道から外れる可能性が少なくなります。原霊の生存規則が分かればわかるほど、「慈悲心」を発することができます。万霊は同じ源にあるからです。

 心を修める阻害、障害は俗世界または霊の世界からくるもので、皆「執」から生じるのです。「心を清める」ことだけ、打破することが出来ます。「執」とは何かというと、宇宙と人生の真相についての理解と認識は偏っていて、間違っていて、一人の人間の認識と理解が、ぶつかった問題に答えること、または目の前の窮地の原因を突き詰めることが出来ない場合、その人は自分の持った認識と理解によって答えを探ることを試みるようになります。その結果として「悟り」か「執」かの二つが待っています。 

 俗世界では、我々はよく色々な「不公平」で悩んだりします。仕事上、自分が人より多く働いて、人より能力が上なのに重視されなくて、コツコツ働くのに抜擢してもらえません。家庭内では、家族や子供のために奉仕しているのに、大切にしてもらえません。佛学を学んで修行したいだけなのに、世間の悩みが私の「清浄心」を邪魔して、安心して修行することがどうして出来ないのでしょうか。世間には浄土というものがないのではないでしょうか。病院に勤める人となると、目の前は苦に満ちているのに、医者や看護師は見慣れて、自分たちのミスや怠りによって人間悲劇を引き起こしてしまいます。それで自分が後退りしたくて、世から逃げ隠れようとします、などなど、数え切れないほどの例があります。周りの修行仲間でも、悟りのレベルの違いによって、物事に対する理解も違うし、人づきあいの仕方なども違います。人に誤解され、嘲られ、事実無根のことや悪口を言われることは、日常生活の中でよくあります。これらの「不公平」は、ひとりで存在すると思っただけのものであっても、事実存在しているものであっても、俗世界から来た心を修める際の阻害です。そのような考えが脳中に根付いて、どうしても払拭することができません。毎日そのように自分に言い聞かして、それで自分の考えていることが正しいと思いこんでばかりいて、他に解釈のしようがありません。最終的には、これらの偏った認識に「執着」して、認識を高めることができなくなります。時間がたつにつれて、これが心を修める過程における「魔」になるのです。

 このような状況で、佛法の理論に対する認識と理解を学んで、応用することを通して、その悩みや不公平に拘らなくなるのです。たとえば、上司が能力もなく、コツコツ十何年働いただけで、社長になって、今のポストにつけたのに対して、自分は高い能力を持っている(と自分は思っているだけだが)のに、どうしても重用してもらえないというような場合です。あなたは重用されることなく、転職しようと思ってもうまくできないのは、他の誰かのせいではなく、あなたの身に業障がつき纏っているからです。あなたは箱の中に束縛された虎のようで、順調になりたいのなら、まず業障を除去しなければなりません。あなたの上司となると、能力の如何はともかくとして、現段階では貴人が助けてくれる運にあって、前途は明るいです。その原因は、前世、孤独な老人の後半生の面倒を見たことにあります。このようなことが分かれば、因果定則が必ず間違いがないと意識することができ、時間を惜しんで業障の除去と善行を行うことに専念するようになるでしょう。また、病院ではあまりに人間悲劇を目にするというが、白血病にかかった五歳の子供は前世、恋愛事情で人の命をあやめたことがあるのが分かりますか。その患者は医者のミスで亡くなったが、その際にその医者が新たな業障を造ったにしても、根本的な原因は患者自身の身には30年も霊がとり憑いていて、ただちに診てもらえないように阻止されていたことなどが分かりますか。これらのことが分かってきたら、もう迷わないでしょう。

 もう一つの「執着」は霊または神通に対する間違った認識から生じたのです。たとえば、いつも既に亡くなった人のことを思っていて、自分の身に付き纏る霊がもったいなくて、良縁だと思い込んで、また「親子の縁」を持ち続けたいと思う人がいます。しかし、どんな霊に対しても正しく認識できれば、良縁であろうと悪縁であろうと、新しい輪廻によって切断されたものだと分かるべきです。たとえその縁がまだ終わっていないにしても、新たな輪廻に入るものです。それに、人の身体に対する霊の被害は絶対的なもので、肉体にだけではなく、精神に対しても害を加えるのです。それから、自分から特定な縁を結び続けたいと思うと、それに連れられて、一連の「縁」が来るかもしれません。その結果は想像しがたく、「髪の毛一本引っ張ると全身が動く」とさえ言えます。このことが分かってきてもなお、既に切断された縁を持ち続きたいと求めますか。それでも既に亡くなった人を忘れないようにするつもりですか。

 今までの修行者は経文の研究および修行仲間による証明を通してこそ、佛法に対する自分の認識と理解が正しいかどうかが検証できたのです。その中の艱難辛苦が想像できますが、現在は情報が発達したおかげで、指導を受けるのはたやすくなりました。しかし同時に、多種多様な情報が容易に入手できるがために、その分別と選択をする際には巨大な困難が我々の前に横たわっています。佛法に対する認識と理解が古来そんなに容易なことではない、ということを示しているのです。
では、なぜ心を清めれば「執」を打破することが出来るというのでしょうか。心を清めるというのは、

 みなさんに何も考えないでほしいとか、そういうことではありません。心が一種の俗世間を超えるとした境界にあるという意味です。俗世界のもめごとや争いの外に身を置くことです。その結果、汚されることなく、巻き込まれることなく、夢中になることもありません。これが世間百態を見通して、佛法の真諦を悟る先決条件です。

 だから、今後の皆さんの修行の効果がどうであれ、佛法を学ぶ誰もがこれらの基礎知識から学び始めるべきです。佛法を学問のように理解するべきです。それが我々に数学の公式のような基本法則を教えてくれます。蘆先生のご指導の下、一を聞いて三を知るように佛法を生活に応用し、悩みを看破し、世間の義理人情を見通して、徐々に人生の波と谷に対して平常心で臨むことができるのです。ここまで佛法に対する境地に達したら。その後、より高い境界が我々を待っていて、仏法の理論がその先は尽きることが無いのです。

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