今日は君子になって、小人にならないことを話します。君子とはどんな人でしょう。分かりやすく言えば損することをいとわない人です。小人とはどんな人でしょう。いつも人から得をしようとする人です。弟子の皆さんは毎日自分を律して、自分が君子なのか小人なのか反省してください。自分の事を懺悔して、何が間違ったのか反省してください。

 人間はなぜ無知になるのでしょう。無知とはつまり自分の事を反省できないことです。皆さんは毎日家に帰ったら、是非今日は何を間違えたか、他人が自分のためにどれぐらいしてくれたのか反省してください。人間はいつも自分が良いことを沢山して、多くの人を助けた事ばかり口にして、自分の間違いを考えたりしません。

 菩薩は世の事ではなく、自分自身を察することを説いています。なぜこうなるのでしょうか。自分の心を察する事は、つまり一切の衆生を察することだからです。

 世の中の事を察しないことは、つまりほかの物事に気づかない、ほかの物事に関心を持たないことです。ひたすら自分自身を察することは、つまり自分に注目し、自らを悟らせる事です。もし自分だけに注目し、自らを悟らせ、他人には無関心なら、小乗仏法になってしまったのではないかと思ったら、それは間違っています。自分の心を察する人は、自分の感覚で自分の心を察して、自分の事をこれこれだと感じると、実は一切の衆生を悟る人になるのです。人間は本来は一体のもので、人それぞれの人体は元々一つの原霊から来るもので、原霊で自分の事をちょっと感じたら、実は世の中の衆生を感じることになります。自分がした事が正しいかどうかを感じることは、つまり衆生を感じることです。ですから「同体大悲」というのです。
 
 「人生にとって最も尊い事は何でしょうか」。是非「人生にとって最も尊いことは他人の偽善と不義理に対して、自分の人に対する親切さを相変わらず保っていること」だということを銘記してください。他人に嘘偽りや不義理があっても、相変わらずニコニコして親切にできるなら、あなたが菩薩になります。何人ができるでしょう。他人のことを大目に見て、他人は修行していないし、凡人で、こちらが修行した人で、その「我」は本当の私ではなく、その「我」をまともに思わないでください。人は何によって尊敬されるのでしょうか。それが言葉使いや行いによるものです。なぜ「修心修行」と言うのでしょうか。それが言葉遣いや行い、心の中の行いを含めるものなのです。

 人間一人の生命は、必ずほかの全ての人の生命とつながって初めて意味があるのです。つまり、彼がいるからこそあなたがいる、あなたがいるからこそ私がいる、私がいるからこそ彼がいるように、実は一つのサイクルなのです。もし人と人が心のつながりがなければ、この世で生きていられません。例えば、他人を受け入れられず、友人がいなくて、両親や子供や友達との仲が悪く、誰とも連絡しなければ、この世で生きるにはどんな意義があるのでしょう。

 ですから、人と人とはまとまった一つのもので、玄学からしてみれば、実は一つの原霊ということです。人々は元々一体のものなので、互いに助け合うべきです。他人の欠点に気がついても、その人のためなら、いつかは分かってくれるだろうと信じましょう。更に、世界の万物は、実は一切の命あるものとは密接な関係にあります。つまり、世界中の万物は情があるのです。我々人間同士は情がありますが、植物にも情があるのです。例えば、スイカが甘く熟して人に食べさせて渇きを癒そうとして、野菜が実って人に食べさせて、人に栄養を与えようとするから、植物には命があるのではないでしょうか。この植物が人に利用された後、更に命の意義を持つのです。ですから人間と世界の万物とはすべて意義があるのですから、むやみに食べ物を浪費しないでください。食べ物を浪費することはつまり生命を浪費することです。食べ物を無駄にすると、福運が消耗されるのです。多くの裕福な人が気前良く布施をしますが、自分が消費する時は極めてケチで、これは本当にケチなのではなく福運を大事にするからです。というのは、これらの福が容易く手に入らないものだと分かっているからです。

 悟りを求める人は、苦境に遭っても悩みません。悟りを求める人なら困難にぶつかっても悩んだり心配したりしません。なぜなら、道理を弁えて、人生には必ず苦難が伴い、人の一生は苦しみを嘗めるためにやってきたもので、この苦しみは自然にやってくるもので、受けるべくして受けるので、余計な心配をせず、甘んじてその苦難を受けるのです。悩んで心配する人ならまだ悟りを開いていない人です。

 人は成り行きに任せるべきで、最も良いやり方でこの縁を円満に行くようにすることです。執着心のある人は成り行きに従ったりしません。修行する人なら、何かに出遭った時、心の中で揺るぎがないようにしてください。この心の上がり下がりとは、それを心の重荷だと思うかどうかです。重視したら、心の中でストレスが増えるし、気にしなければ気持ちが楽になるのです。真の修行者なら例え冥府でもその人の思い通りにさせるのです。

 凡人を聖人に変えよう。つまり我々凡人を聖人にすることです。我々は凡人で、何事でも悩んで貪ります。周知のように、中国の孔子は聖人で、中国の文化を広めました。聖人の大切な点は他人を許すところです。人を許すことは慈悲の始まりで、そうでなければ慈悲心がどうやって生まれるのでしょう。他人を許さないと恨むことになって、人を恨んだら慈悲心が生まれるわけがありません。

 即心即仏について。この四文字には森羅万象が含まれていて、つまり心が外の環境に左右されない事です。もし、この心は仏であれば、あなたが仏になり、この心が魔でれば、あなたが魔になるのです。

 信心を敬ってください。信心はどうのように続けるのでしょうか。それを尊敬することで、他人によって尊敬されるのではなく、自ら自分の信心を尊敬するのです。自分が成功できると信じていなかったらすべてうまくいかないでしょう。自信心のない人はどうして修行がうまくできるのでしょうか。ある人の勧めを聞いて、なるほどと思い、また別の人の勧めを聞いて、それももっともだと思って、結局虻蜂取らずになります。人のできる事には限りがあるから、生涯で一つの法門に集中さえすれば精進できるのですが、どの法門も学ぼうとしたら、最後に何も成し遂げられません。更に、時には正道を外れたら魔となります。ですから、自分の信心を敬って、発心してちゃんと修行をしましょう。

 方便即ち究極になります。この方便は俗世間でのいわゆる方便の事ではなく、実は一つの方法で、この融通の利く方法は方便というのです。

12 「因空」と「果空」について
「空」とは何でしょう。ご存知のとおり、仏教の世界の本質を見る見方は「空」というものです。我々はいま仏法を学ぶだけでなく、時空をも超えることです。この空という字は世界の本質に対する一つの見方で、つまりこの「空」は絶対のものです。でも「空」にはいくつかあって、小乗仏法と大乗仏法とでは「空」の理解は違っています。

 小乗仏法の空に対する理解は我空です。「我空」とは何でしょう。我とは空であって、この世には永遠に変らない精神が無くて、つまり「我」は精神によってコントロールされ、この世には「我」を永遠にコントロールできる精神はありません。これが小乗仏法の空に対する認識です。また、小乗仏法は果空についても述べています。「果空」とは何ですか。つまり、この人は因果関係においてすべての結果や事実はすべては空で、世の中には永遠に変らない基本元素の集合体はありません。「果空」とは「我」の精神は事実上空だということです。「我」をコントロールしている精神的な物質は永遠に空であって、実際には存在しないものです。

 例えば、水は水の分子からできていて、一つの集合体です。しかし、水が蒸発したら、この水がまだありますか。人間の考えは一、二秒持続しますが、次の一、二秒には瞬く間に消えてしまって、何も残らないのです。小乗仏法のこんなに素晴らしい理論が、大乗仏法でやはり認められないのはなぜでしょう。というのは、その理論は既に「有」と「存在」をベースにして成り立っているからです。その空は空が有の上に述べてられていて、その基礎の上で空を論じるので、実際はまだ有であって、空ということにはなりません。大乗仏法は「因空」を主張するのです。

 「因空」とは何でしょう。この因果の因でさえも空なので、まして果はいうまでもありません。つまりこの因は存在しないのです。たとえば、何か悪口を言われても、聞こうとしないなら、この「因」がなければ、腹も立たないし、辛くもないし、この「果」ができません。小乗仏法の場合は、それを聞いて、心の中に「果」が生じてから、その「因」を取り除きます。「因空」とは「因」が無く、つまり、全然無いものなので、心の中で「果」が生じません。これが大乗仏法です。大乗仏法は物事を組み立てる基本元素でさえも空なのです。まさに禅宗がいうところの「本来無一物 何処惹塵埃(本来無一物,何れのところにか塵埃を惹かん)」のようです。大乗仏法ではもう一つ「法空」も述べています。「法空」とは何ですか。目に見える全てのものは空で、全部存在しないものです。ですから、世の中の全ては空なので、執着せず、恨まず、惑わないことです。

 大乗仏法は世界の根源は空であって、つまりこの世界は本来は空のもので、すべて仮の姿と述べています。自然界のものは全て架空で幻です。この世界で何が本当のものですか。たとえば、死ぬほど愛し合った夫婦が、暫くしたら敵のように憎み合うようになるのは、仮の姿ではないでしょうか。人間は智慧があればこそ自分の愚昧に打ち勝てます。そうでなければ、いつまでも愚昧のままでしょう。ですから、この世界の全てのものは仮のもので、実はこの確実でない幻は「仮の有」です。皆さんの持っているすべてのものは一時的な有で、すべては確実ではないもので、すべては「仮の有」です。今日所有しているものすべては一旦無くなったら、すべて消えてしまうのです。まるで、両親が亡くなったら、何も残らないようなものです。

 世の中のすべてのものは「仮の有」で、一旦所有したら永遠に持ち続けると思わないで、すべては変るもので、「動的」に客観な見方で考えるなら、泣かないし、辛い気持ちにならず、悲しんだりしません。ですから、必ず「動的」な基準で、簡単かつ執着心を持たないと、希望に満ちた生活が送れます。希望に満ちた生活をすれば、この世界が美しく感じて、この世界のすべてがもう帰られないものと思うなら、この人にとって、この世界は終末で、終末だと思えば、失望して、強いては自殺してしまうかもしれません。智慧のある人は永遠に自分自身を傷つけることはせず、自分を傷つける人は智慧が無いのです。納得できずに思い悩んだら、自分を傷つけるのです。

 自分の悟性をもって、人生を体感しましょう。心を修めるのは自分に対する戒めで、自分を高めるものであるので、苦難を伴うものです。ですから「苦行」と呼ばれるのです。自分の様々な欲望を抑え、様々悪癖をコントロールし、我が身の欠点を直すことによって悟りの果が得られるのです。

13 心は環境に左右されず、縁

 何かやろうとしてうまくいくかどうかは、能力によるものものではなくて縁によるものだと銘記してください。主に縁によるもので、やれるかやれないかの問題ではありません。何かやろうとして、いくら努力して、能力があってもうまく行くとは限りません。なぜなら、人間界での福運は因縁の巡り合わせで決まるからです。この因があるので、この縁を結んだのです。もし真の因と縁が働いていたらそのことが成功につながるのです。あることを成功させようとしたら、まずその因縁の機が熟したかどうかを考えるべきで、自分の力量によって解決するものではないことを考えるべきです。

 常に無常を念頭に置くことです。つまり、頭の中で世の中には永遠なものはなくて、すべては本当の姿ではないことを知るべきです。この世は本来無常無我で、つまり、永遠なものはなく、我もないので、執着しないでください。

 災難に遭っても落ち着きを失わず、信じる力が要ります。たとえ定業だとしても変えることができます。定業とは運命判断でも分ることで、つまり「定め」ということです。たとえば、占い師に運命を見てもらったら、何歳に厄があるとかいわれますが、これは定業ということです。定業は変えられますが、ぜひ信じる力が要ります。たとえば、善事を積み、大願を掛け、多く布施をし、一生懸命お経を読めば、きっと変えられます。ですから、たとえ定業でも変えられるとしても、読経に励み、単に神仏に求めないでください。修行する人ならあまり占いに頼らないで、修行に励み、菩薩が自分の業を変えてくれることを信じてください。

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