仏法を学んで心を修める目的は何ですか。このテーマには多くの人が「極楽に往生するため」と答えるでしょう。でも具体的にどの程度まで、どのように修行したら極楽に往生できるのでしょう。よく修行しなかったら、どうなるのでしょう
か。分からない人が多いでしょう。実際、極楽往生は非常に高い到達点なので、そんなにたやすく達成できるものではありません。
 
 よく知られた例で説明しましょう。人間は亡くなった時あるテストみたいなものを受けるのです。冥府や地獄に行くにせよ、天上や極楽に行くにせよ、全てあるテストを受けることになっています。仏法を学んで心を修めるのは大学を受けるようなもので、極楽往生するのはまるで世界のトップクラスの大学に合格するようなもの
で:ハーバードやオックスフォードのようなクラスの大学を目指すもので、沢山の人には難関大学です。割と現実的な目標は国内の名門大学や国内の一般大学、県庁所在地の大学です。それは天道や阿修羅道や人間道になります。ですから、我々の目標としては心の中で最高のレベルを目指して、現実的にはまず実現可能な目標――天道に向かうのです。天道は上に行けば行くほど、そこにいられる時間が長くなり、人間道に近ければ近いほど、下に落ちる可能性が高くなるので、誰でも高い目標を掲げて頑張りましょう。

 多くの人はなぜ人間道以下を輪廻するのでしょう。

 天道或いは冥府での生活はどんな様子でしょう。実際、この世での人々の生活ぶりは六道各界の縮図で、自分の周りの人々の状況は生き生きとした『大蔵経』を現しています。ある人は地位も身分も高く、権勢をほしいままにし、ある人は何事も順風満帆で、ちょうど天道で暮らしているようです。ある人は命の限り絶えず頑張っ
て、結果より過程を重んじるので、これは典型的な阿修羅道の状況の現れで、大半の人は毎日の衣食住に追わ
れ、大きな喜びも悲しみもなく、ありふれた生活です。ある人は病魔にとりつかれ、苦しみにさいなまれたりして、或いは天災人災に見舞われたりして、まるで地獄にいるような惨状です。こういうわけで、言うまでもな
く、天道に行くことこそ我々の求める目標なのです。
 
 この世での生活が大学受験と同じなら、受験者は同じ内容で受けますが、誰でも受験資格があるとは限りません。我々は受験勉強の過程で、どんな受験の条件があれば、天道にのぼる試験が受けられるか、どんな試験なのか知るべきです。これを説明する前に、我々は今なぜ人間道に生きているのか、何が阻害で天道に行けなかったのか理解すべきです。

 前世や現世の行い
で、誰もが魂に罪業と福運が並存していますが、違いはその割合の多少です。それぞれの罪業や福運は生まれた時から、罪業や福運は糸のようで、片方がその人で、もう片方がその人の縁のあるものとつながります。更に分かりやすく言えば、その人の罪業が発するのは黒い糸のようなもので、阻むような力になるもので、もう片方につながっているのは、過去に借りのある人、つまり債権者に繋がります。その人の福運は白い糸のようなもの
で、メリットになる力で、その人に借りのある人からやってきたものです。これが業の力です。罪業や福運が多ければ多いほど糸は太くなり、それに応じた阻む力やメリットになる力も強くなるので
す。
 
 生まれる前、このネットにつながっている両親が返済し始めて、生まれてから、兄弟姉妹や親戚友人につながり、学校に上がった
ら、更に同級生や先生が加わり、それから、友人、夫婦,子供、同僚などの関係で一つずつ返済や取りたてを繰り返します。これらの関係は縦糸と横糸で編んだ人間関係のネットみたいで――つまり俗世間で人それぞれが自分のネットに組み込まれています。我々の魂は常にこのネットの中に束縛され、俗世間における縁に制約され、前に進む方向も左右されるので、運命の浮き沈みとなるのです。我々は毎日命の一刻一刻において新しい縁を結んだり結ばれたりしていて、縁は心から来るもので、「身口意」は罪業を作る源で、悪念が一つ浮かんだり、悪事を一つ犯したり、人を罵ったりすると、新たな罪業になるので、その人にかかわるネットの「黒い糸」を密に編んでしまうのです。
 
 一つの罪業が未成熟の段階では、その人の神経を圧迫し、運勢を悪くし、体を蝕み、願い事がかなわず、健康を害し、こういうことは実は「罪業による」債務の利息と催促のサインのようなものになります。罪業の債務としての返済期限が来るたびに、債権者は借りのある人を急病や突発事故等様々な状態に陥れ、取りたてに来ま
す。返済してしまえ
ば、この罪業が消さ
れ、この縁も消えてしまうのです。善縁でも同様に縁というもの
で、自分に借りのある人から同じように全て返しに来るもので、さもなければ、その人の俗世間での縁が消えずに続くのです。
 
 その違いは、罪業なら普通三世に渡って清算できますが、善縁だと、つまりいわゆる福運なら来世までほとんどなくなるのです。人間は45歳までは前世からの善縁でもたらした福運を受けますが、45歳から55歳ま
で、及びそれ以降は現世での善行による福運を受けるのです。普通善縁は俗世間の生活で働く力がそれほど強くなく、主に阻む力は罪業から来るものです。だからこそ罪業を消すことを第一にし、それが重要視されるわけなのです。
 
 縁が断ち切れない限り、このつながりが気がかりで、解脱できません。ですから、いつも「俗縁が切れていない」という言い方があって、俗縁が切れていないと、また生まれ変わって輪廻します。もしこの俗世間のネットに左右され、断ち切る方法が分からないな
ら、幾世に亘って、過去の債務を返済してはまた新たな債務を作ることになり、ますます多く積み重なって、とうとう俗世間の中を浮き沈み、流れに流され
て、散々運命に弄ばれるのです。これが多くの人が人間道にいながら冥府に置かれたり、この世の地獄に置かれたりしたようで、それが繰り返されて、天道に入れないわけです。というのは俗世間でのネットのそれぞれの糸はそれぞれの因果になって、因果の定律に従っているので、どんな力でも断ち切れないのです。人の力に頼って俗世間のネットから脱出するのは不可能で
す。
 
 仏法は因果律の法則を明確に説いていて、自ら罪業を消し俗世間のネットから脱出する不二の法門を示していて、仏法は俗世間のネットから脱出する方法を教えているのです。因果律は「因があれば必ず果がある」というだけでなく、更に大切なことは「一つの因果はもう一つの因果によって変えるしかない」ということです。この二つのことから、我々は仏法を学んで心を修め、仏法の教えに従いさえすれば、仏や菩薩が無上の慈悲でそれを一つの因果を持って功徳として記録してくれて、その人の罪業の因果を消してくれるのです。このことから、「仏法は限りなく衆生を普く救済する」のは偽りのない真実です。

 どうすれば天道に行けるか?

 修行するにはまずどのように俗世間との縁を断ち切るか、つまりどのように前世の借りを完済し、新たな縁による借りを作らないようにすることです。今まで習った白話仏法で分かるように、前世の借りを返済すること
は、私がいつも言っている罪業を消すということで、新たな縁による借りを作らないためには、心と行いを修めることが大切ですが、どうすれば新たな善縁も引き寄せずに避けるのでしょう。善事をしてもいけないのです
か。ここで善事と功徳を区別する必要があります。我々は菩薩の前で善事を行うことを誓ったら、その善事は功徳として記録されるのです。というのは、その人が既に報いが得られ、それがつまり功徳になるのです。その
上、人を助ける時見返りを期待したりしていなくて、心が清らかなので、これを善縁として結ぶことなく、この縁とのしがらみもないのです。
 
 どの法門でも、それなりに罪業を消す方法がありますが、原理は同じです。自分の来世のための修行でも私が伝え広める現世のための修行でも、功徳で罪業を消すことは同じです。その違いは、私の伝え広める法門では、先に前世の借りを返済し、或いは返済期限が来る前に返済することです。「出家」によってのみ俗世間との縁が断ち切れると思われていますが、単に剃髪するだけで、全て変ったとは言えず、全ての悪縁がそのまま残っているのです。「出家」した人が戒律を守り、修行に励み、功徳を積んで、そうして初めて徐々に功徳によって悪縁を消すことができ、俗世間との縁から離脱できますが、肝心なことは功徳があるかどうかです。でも、「出家」すると、俗世間を出る時から、戒律を守っていれば、もう二度と「俗世の汚れに染まる」ことがなく、つまりその人の俗世間にいた時の縁に新たな汚れが生まれません。
 
 修行を通して、前世の借りを返済し、縁を断ち切ることによって、我々は受験資格が取得でき、天道の各階層に昇る試験が受けられて、その成績によって天道のそれぞれの階層に昇れますが、良い成績を上げるため、試験の内容について知っておくべきです。答は簡単で:功徳と悟りの境地の二つです。これは仏法での衆生を救済する大切な要素でもあり、つまり、試験の内容を明示し、受験準備の方法を教えてくれたのです。誰でもこういう試験を受けなければならず、合格する階層に違いがあるだけで
す。仏法が分からない人には、試験があることや試験内容について全然分からず、準備もできていないから、本当に「哀れむべき人」と言うのです。
 
 功徳は修行した結果で、悟りの境地は心を修めた成績です。行いと心を修めることは事柄の裏表で、お互い補完し合っています。行いを修めるのは心を修めるための手段で、その一方、行いを修めることを通じてより多く悟って、更に悟りの境地を高めることにつながります。心を修めるのは修行におけるもっとも重要なことで、発心するのは修行の起点になるもので、心の境地が高まったら、大願がかけられて、修行の質をそれに応じて高められます。特別な例を挙げましょう。ある人が何かのきっかけで、ある船の乗客全員を救ったという大きな功徳を積んだとしましょ
う。その人の福運は強いのですが、心を修めていないので、性格が乱暴で、欲深いから、天道に昇ることができなかったのです。
 
 功徳と悟りの境地は試験の確固たる指標で、欠かせません。ですから、仏法ではこの二者をめぐって大いに関心を払いました。この二者の指標を高めるのに極めて詳しく説明して、様々な障害、誤解、しがらみ等について解釈し、心に宿る魔性を克服する方法を詳しく説明して、具体的に指導しています。我々の修行の過程で、受験準備の方法も教えてくれています。例えば、夢で色々テストをすることとかは、我々の修行のレベルを確かめ、修行する方向を整えるのです。人によって状況が違うので、それぞれの縁やしがらみも違ってきます。現世の富貴栄華に溺れる人や、「好きな人が傍にいてくれたら、それだけでいいです」と思う人や、肉親の愛情を捨てきれない人や、仕事や付き合いに忙殺され、これこそ何よりも大切だと思う人が大勢います。ある人はお経を読む時、雑念が多くてよく気が散りますが、ある人はすんなり落ち着きます。ある人は長年修行していても「なぜ私が全てうまくいかないか」と悩みますが、ある人は数十年お経を読み続けるだけで極楽往生できたのです。ある人は二世に渡って出家したことがあっても、現世では苦しんで生きているなど、さまざまです。

 ですから、俗世間の縁を切るのはそう簡単ではありません、修行することは単にお経を読んだり善事を行ったりするだけではなく、「悟ること」が肝心で、功徳を積んだり心を修めたりするのは菩薩の「智慧」を得るためです。さらに、悟りの境地に至って「智慧」を開いたら、心を修める道で、新たな試練に耐えて、更なる功徳を積むことができるのでしょう。

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