「空」とは何でしょう。ご存知のとおり、仏教では世界の本質を見る見方は「空」というものです。我々はいま仏法を学ぶだけでなく、時空をも超えることを認識するのです。この空という字は世界の本質に対する一つの見方で、つまりこの「空」は絶対のものです。でも「空」にはいくつかあって、小乗仏法と大乗仏法とでは「空」に対する理解は違っています。
 小乗仏法の空に対する理解は「我空」です。「我空」とは何でしょう。「我」とは空であって、この世には永遠に変らない精神が無くて、つまり「我」は精神によってコントロールされ、この世には「我」を永遠にコントロールできる精神はありません。これが小乗仏法の空に対する認識です。また、小乗仏法は「果空」とも述べています。「果空」とは何ですか。つまり、この人は因果関係においてすべての結果や事実はすべては「空」で、世の中には永遠に変らない基本元素の集合体はありません。「果空」とは「我」の精神は事実上「空」だということです。「我」をコントロールしている精神的な物質は永遠に空であって、実際には存在しないものです。
 例えば、水は水の分子からできていて、一つの集合体です。しかし、水が蒸発したら、この水がまだありますか。人間の考えは一、二秒持続しますが、次の一、二秒には瞬く間に消えてしまって、何も残らないのです。小乗仏法のこんなに素晴らしい理論が、大乗仏法でやはり認められないのはなぜでしょう。というのは、その理論は既に「有」と「すでに存在」をベースにして成り立っているからです。その空は「空があり」の上に述べられていて、その「空があり」の基礎の上で論じるのは「空」ですが、実際はまだ「有」であって、空ということにはなりません。
大乗仏法は「因空」を主張するのです。「因空」とは何でしょう。この因果の因でさえも「空」なので、まして果はいうまでもありません。つまりこの因は存在しないのです。たとえば、何か悪口を言われても、聞こうとしないなら、この「因」がなければ、腹も立たないし、辛くもないし、この「果」ができません。小乗仏法の場合は、それを聞いて、心の中に「果」が生じてから、その「因」を取り除きます。「因空」とは「因」が無く、つまり、全然無いものなので、心の中で「果」が生じません。これが大乗仏法です。大乗仏法は物事を組み立てる基本元素でさえも空なのですから。まさに禅宗がいうところの「本来無一物 何処惹塵埃(本来無一物,何れのところにか塵埃を惹かん)」のようです。大乗仏法ではもう一つ「法空」も述べています。「法空」とは何ですか。目に見える全てのものは空で、全部存在しないものです。ですから、世の中の全ては空なので、執着せず、恨まず、惑わないことです。
 大乗仏法は世界の根源は「空」であって、つまりこの世界は本来は「空」のもので、すべて仮の姿だと述べています。自然界のものは全て架空で幻です。この世界で何が本当のものですか。たとえば、死ぬほど愛し合った夫婦が、暫くしたら敵のように憎み合うようになるのは、仮の姿ではないでしょうか。ですから、人間はぜひ智慧があればこそ自分の愚昧に打ち勝てます。そうでなければ、いつまでも愚昧のままでしょう。ですから、この世界の全てのものは仮のもので、実はこの確実でない幻は「仮の有」です。皆さんの持っているすべてのものは一時的な有で、すべては確実ではないもので、すべては「仮の有」です。今日所有しているものすべては一旦無くしたら、すべて消えてしまうのです。まるで、両親が亡くなったら、何も残らないようなものです。
 世の中のすべてのものは「仮の有」で、一旦所有したら永遠に持ち続けると思わないで、すべては変るもので、「動く的」なもので、客観な見方で考えるなら、泣かないし、辛い気持ちにならず、悲しんだりしません。ですから、必ず「動く的」な基準で認識し、単純化かつ執着心を持たない見方で考えると、希望に満ちた生活が送れます。希望に満ちた生活をすれば、この世界が美しく感じます。この世界のすべてがもう永遠に変えれないものと思うなら、この人にとって、この世界は終末になるのです。終末だと思えば、失望して、強いては自殺してしまうかもしれません。智慧のある人は永遠に自分自身を傷つけることはせず、自分を傷つける人は智慧が無い人です。納得できずに思い悩んだら、自分を傷つけてしまうことを銘記してください。
 自分の悟性をもって、人生を体感して味わいましょう。心を修めるのは自分に対する戒めで、自分の境涯を高めるものであるので、苦難を伴うものです。ですから「苦行」と呼ばれるのです。自分の様々な欲望を抑え、様々な悪癖を改め、我が身の欠点を直すことによって悟りの果が得られるのです。

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