「善行にはよい報いがあり、悪行には悪い報いがある」という諺は、よく知られていますが、仏法から見てもそれは理にかなっています。いわゆる善行や善意は良い考え、良い行為のことです。全ての善行善意は記録され、適当な時期や機縁によい報いとして現れます。同じように、悪意や悪行も記録され、必ずいつか罰が当たるようになっています。ただし、善行善意によってもたらされたよい報いは、悪意悪行による悪い報いを帳消しにすることはできません。例えば、たくさんの善行をした人がいるとしましょう。その人は同時に大きな悪行も一つ行ったなら、よい報いもありますが、悪い報いからも逃げられません。これで、良い人だと周囲に思われる人が、この世を去ると、地獄で苦しむようなケースも理解できるでしょう。
功徳は、佛法でよく強調される要素の一つです。では、功徳とは何か、その効用は何でしょうか。実は功徳とは、善行善意そのものです。ただし、菩薩の前で願をかけて行った善行善意だけが功徳になるのです。普段我々が行った善行善意など、菩薩の前で願をかけなければ、自発的なものであろうと、佛法の影響を受けたものであろうと、ただの自己表現に留まります。例をあげましょう。精進料理を食べる人がいるとします。何年もそんな食生活をしていたのに、菩薩の前での願かけがなければ、たとえ十年続けたとしても、それはただの個人的趣味に過ぎません。だから、菩薩の前でこれから精進料理を食べるという願をかけたら、その行為は不殺生という善行になったのです。ですから、善行を行って、よく人を助けるのも、親孝行をすることや、きょうだいを愛することを重んじるのも発心しなければなりません。しかし、お寺や観音堂など、菩薩や佛が祭られているところでは、全ての善事が功徳になるので、わざわざ発心する必要がありません。我々の文書などは政府のサインがもらえて初めて法律上発効するのと同じように、善行善意は菩薩の承認があって初めて功徳になるのです。
では、功徳にはどんな効用があるのでしょうか。業障の害或いは罪業から来る害はみなさんご存知ですね。ソフトウェアに潜んでいるウィルスのように、人間の阿頼耶識に潜んでいて、時が来れば活性化して霊に変って、人間を左右するのです。いつも元気バリバリの人が突然危篤状態になって救急車で運ばれたり、または思いもよらず事故や強盗に遭ったりする原因はこれです。ひどい場合、罪業の深い人だったら、一生不運で、顔色も暗く陰鬱な存在で、結局は天を恨み、人を咎めるばかりで終わってしまいます。もし福がまだ溜まっているのなら、現世の悪行や殺生は、業障となって阿頼耶識に預けるのです。阿頼耶識は八識の中の第八識で、「阿梨耶識」とも言い、根本識であります。阿頼耶識には無数の種が潜んでいて、人の善悪の行為(主に思惟活動を指す)を引きだすことができます。業障がここに潜んで、功徳だけこの中に入ることができ、罪業と相殺し、最終的に罪業を清算することになるのです。これはいわゆる「身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し 時時に勤めて払拭し 塵埃を有らしめること莫れ」で、功徳によって、心にある塵を拭い取るのです。
要するに、功徳の効用の一つは、罪業を除去し、相殺することで、修行者の一番の目的です。罪業が除去されて初めて、心が清められ、智慧が開かれ、悟りに至る可能性があるのです。
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