現世のすべての思いと行為は業障を生む可能性があります。貪・瞋・痴、我執、他執、など、どれも業障が生じる源なのです。では、どうすれば業障が生じるのを阻止できるのでしょうか。
第一は戒めです。戒めとは改めることです。癖、習慣、気性を改めて、貪と瞋を除去するのです。誰にもあれこれの習慣や気性があります。「私はもとより率直で、何でも思ったことをすぐ口に出す」と。それでいいと思いますか?知ったかぶりをすることさえ口業なのに佛や菩薩を尊重しないのは言うまでもありません。改めることなく、戒めることなく、いつまでも生臭ものを食べたり、飲酒したりするのでは、どうやって修行すると言うのでしょうか。戒めとは、戒定慧の最初の一歩です。改めて、戒めて初めて業障の発生を少なくし、心を定めることが出来るのです。そうしてはじめて、惑わされず、痴にならず、智慧を持つことが出来るのです。
以上のようなことを戒めたら、次はやや高次元の「断固として私心や出来心と戦う」ことです。これは実は仏教者の言葉で、悪い念や良くない意識がまだ潜在的な状態にある段階で、それが間違ったものだと認識し、まだ熟していない段階で改めることによって、業障が生じる余地もないのです。逆に、悪い念や良くない意識に沿っていくと、悪い念が熟すると、業障になってしまうのです。この一歩は明らかに肉食を戒めることより難しいです。
次は最も高次元の心魔です。心魔は業障によって引き起こされながら、より大きな業障をもたらします。だが、心魔は修行の高い人にだけあるもので、それに向きあい、看破し、悟ることができてこそ、心魔を滅ぼすことができるのです。
言うまでもありませんが、看破することはそう簡単なことではありません。その中には深い修行の理念が含まれています。我執や他執を除去すること、いわゆる相や衆生相を打破することは、単なる理論上の学習では解決できません。日常生活にある簡単な例をあげましょう。きれいな娘に会ったら、普通の人はそのかわいいところを見て、褒めてあげるだけですが、盧先生のレベルになると、こう言うのでしょう。「まあ、天女が人間界に降りてきたね。過ちを犯したな。よく修行しないといけないな。さもないと、天上には戻れなくなってしまうよ。可哀そうなことに」と。前世が見えるだけに、受け入れる情報が多くて、ことの全貌を把握することができるのです。だからこそ、盧先生は「人の体」を看破でき、「執」を捨て、相にこだわらないのです。これこそ慧です。
それから、金銭功名を看破できる人はこの世に何人いますか。盧先生はその一人です。盧先生には輪廻が見えるからです。このお年寄りは来世男に輪廻転生し、そのうえ科学研究に携わることが見えます。また、この人の財産は歴代の福の報いであり、この人が一生苦労するのは前世の悪行が多かったせいだということが見えます。さらには、人生は個人にとって短い一段階に過ぎず、修行こそ本当に持っていけるものだと分かっています。
金銭なんか人の体と同じように、得られるには得られる原因があって、得られないにも得られない因縁があります。たとえば、プロの登山家が雪山の頂上を目指すとき、体力の保持がどんなに大切かちゃんと分かっていて、一歩一歩動くごとに正確に計算し、体力の無駄な消耗なんか絶対しません。背負うリュックも正確に計り、荷物は必要以上でも必要以下でもありません。同時に空が暗くなったら、暴風雨に遭うと予測でき、その前には必ず安全な宿営地に到着するようにします。その際、道路を間違った人、景色を楽しんでばかりいる人、羚羊を必死に追いかける人に会ったら、登山家はこう勧めるでしょう。「この道に沿っていった方がいいですよ」、「体力を無駄にしないでさっさと前に進んだほうがいいですよ」、「もうすぐ暴風雨が来ます。そうなったら、羚羊は助けてくれやしませんよ」と。これは看破することと看破ではないこととの区別です。看破を望むのなら、智慧を持つことです。智慧がほしいのなら、戒め・定めを通して修行することです。
業障が生じるのを阻止する二番目の方法は「恩を知る心」です。ここで言う恩を知るとは、ただ単に心の状態ではありません。それは一つの道具で、修行の法門です。人間の七情六慾の中では、情・慾ごとに、業障を育む可能性があります。恩を知る心だけしか業障を断つことができません。さらにそれは唯一業障を生まない心情で、貪・瞋・痴に対抗できる有力な武器でもあります。恩を知る心をもって周りの物事を感知することができると、業障は知らず知らずに少なくなっていくでしょう。
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