最近リスナーの皆さんからの問い合わせを整理していたら、内心の苦悶を告白する声がよくあがって、多くの人が困惑していることも感じています。それは、私の能力は人に劣らないのに、どうして他の人が理想的な仕事に就けるのに、私だけが定職に就くことができないのだろう。どうして私の身にまだこんなに病や痛みが残っていて、いくらお経を読んでも一向によくならないのだろうと、これと似たような質問がよく出てきます。特に最近では、ある方からメールで以下のような、典型的な質問が寄せられたのです。「特殊な回向も普通の回向もやりました。それなのに、不運は何年も続いています。お経も何年も読みました。私には仕事上の能力もありますが、ずっと就職できませんでした。いつも就職できるように菩薩にもお祈りを捧げています。ここ何年以来、大悲呪を何千回も、『地蔵菩薩本願経』を何百回も、『準提呪』を百万回も読みました。よく当たると他の人に薦められた占い師に占ってもらっても、一向に当たりません。他の面からも妨害されているようです。仕事面では、面接の前日になると、点した蝋燭に何か問題が出てきます。私にぴったりの仕事も横取りされてしまいます。仕事だけではなく、他のこともいつもそうです。私は生れて以来、他人に害を加えたこともないし、人と争いごとをしたりもしません。だから、私は知りたいのです。一体だれが、こんなにも私のことが恨めしいのか、どうしてでしょうか」。こんな考えや疑惑を抱いている人は少なくないでしょう。この中によく見られる歪んだ心理があります。その歪んだ心理は普段言う魔障で、お経を読む時、心に疑惑を残存させ、誠意を損なって、心が清らかにならないため、その結果、お経を読む効果も大いに弱まってしまいます。同時にこのような考えを抱いている人は、実生活の中から実例を見つけては自分の考えが正しいと思いこみ、修行の自信を損なうだけではなく、最終的に修行そのものを諦めてしまいます。その害は明らかです。
このような歪んだ心理の一つの誤解は、私は現世では、他人に害を加えたこともないのに、どうしてこんなに苦労しないといけないのか、または、どうして私は能力が私以下の×××に負けてしまうのか、と思うことです。このことの根元には「命」という本質問題、命は何によって定められるのかという問題があります。命というのは人がこの世に生まれた瞬間定まっているのです。それは前世と前世の良い報い、功徳、業障、悪報などによるものです。歌のトーンみたいなもので、各人には貧、富、高、低それぞれの基調があって、現世では変えられるものではありません(絶対的ではない)。盧先生がトーテムを見る時は、この点がはっきりしています。同じ辰年の人でも、生き生きとした龍もいれば、彫刻や石窟のように生気に欠けた龍もいます。龍がいる環境も違います。空高く飛んで、前途洋洋な龍もいれば、泥沼に陥って身じろぎもできず、前途多難な龍もいます。虎にしても、山を棲家として自分の居場所がちゃんとある虎もいれば、虜になって頭角を現わせそうにない虎もいます。これらの違いは、本人の良い報いと業障によるものです。辺鄙な農村部に生まれて(辺地に生まれるのも罪業の報いの一つ)、たくさんの苦労を経てようやく大学に入学し、都市部に住むことが出来る人もいれば、初めから大都市に生まれ、その先進的な環境と施設に恵まれる人もいます。同じ都市部の人間でも、裕福な家庭に生まれる人もいれば、貧しい家庭に生まれる人もいます。などなど。これらの目に見える違いは、容易に理解できるでしょう。一目見るだけでは分からない違いもあります。同じクラスにいながら、ずば抜けて聡明な人もいれば、鈍くてしようがない人もいます。しかし、頭の切れる人が社会に出ると却って不遇で、人並みの人が事業に成功するケースもあります。これらはすべて前世の因果応報です。同時にこれは上述のその人の答えです。あなたは現世では、人に害も加えず良い人ですが、前世ではたくさんの悪いことをしましたから、現世の命の基点が低いのです。今の苦は報いを受けたのです。皆さんはこの道理を理解するだけではなく、それを実生活に応用すべきです。自分の現在の状況は「世の中の不公平」によるものではなく、世の中が公平で、必ず報われるからこそそうなったのです。我々の前世が総合計算されたから、今あなたが目にしたかれこれの「不公平」があるのです。今現在の我々の一つ一つの言動行為が記録されつつ、来世にまた報いとなるのです。
もう一つの誤解は「仏道を修行したからには、すぐよくなるはず」と思うことです。修行を通して、命を変えることができませんか。基調から改めることができませんか。虜の虎が山上の虎になる、沼の中の龍が空に飛び上がる、水面下のネズミが水面上に浮かぶ、そのようなことはできませんか。これらすべては我々一人ひとりが気になる問題です。この問題をはっきりさせるには運の変化と関連付けて話さなければなりません。運とは、トーテムの前の道路です。空に飛びあがっている龍を取ってみても、その前の道路は違います。高い道路と低い道路、でこぼこの細道もあります。虜になった虎の前に広い平原が広がっているのもあります。我々は適当な修行を通して、もともとのでこぼこ小路を平坦にし、広い平原を先にのばすようにすることが出来ます。これは「運」をよく、順調にすることです。人生に照合してみると、不運時の大きな災難を小さくし、小さいトラブルを無くすように修行するのです。同時に、幸運の時期をのばし、利益の最大化を果たすことが出来ます。これらは修行を通して達することができます。運が変わってしまえば、それが命の基調を変えてしまうのです。ただし、これは長期的なもので、一朝一夕でできることではありません。長期的な修行を通して、どん底に陥った虎を陽のあたる斜面に、泥沼に陥った龍を岸まで引っ張ることが出来ます。なお、それには度というのがあります。小学二年生が一生懸命頑張って小学五年の科目を習得できるかもしれませんが、高校生または大学生のレベルには到底達せません。博士になるなんてもってのほかです。「博士」になるには、大きな功徳と幾世もの徳や福の修行が必要です。だから皆さんには、人はそれぞれ違うもので、その間に段差があることを分かってほしいです。来世がうまくいけるようになりたいのなら、現世では勤めて修行し、善事をし、福田を耕さなければなりません。現世がうまくいくように思うのなら、なおさら修行を怠らずにしなければなりません。
仏道を修行すればよくなるとおっしゃいましたが、なぜ前文に出た者がそんな苦労から抜け出せないのでしょう。それは皆が修行していますが、でもどうして、長年「佛道」を「修行」しても、お経をこんなに読んでも、「私は不運のまま」でしょうか?お聞きしますが、佛が我々に「十万八千の法門」を賜ったが、その目的は我々により多くの苦労をさせることですか。我々に「どうして私はだめだ」と繰り返し体験させることですか。違うでしょう。「十万八千の法門」は我々に修行を通して良くなってほしい、より修行が便利になってほしいからです。長年修行してもなお以上のような菩薩の神通力と慈悲が分からないのなら、修行の仕方が分かっているかどうかをまず反省してください。
上述の修行者の問い合わせから、彼自身が自分の修行には問題はないが、効果がないだけだと考えているようです。そのトーテムからもこの点が見えています。では、問題はどこにあるのでしょうか。
それには二つの原因があります。一つは修行の法門が適当ではないことです。仏道では、なぜ法を筏に喩える説があるのでしょうか。法にしても取捨選択の必要があるのに、法に当たらないものはなおさらです。法や法門には時効があって、時代によって変化するのです。分かりやすい例をあげます。以前の仏教では、寺に入って出家して修行するように勧めていました。家庭という小さい家を捨てて、仏家という大家庭に入るというのです。しかし、今は俗の世にいながら修行します。家庭という小さい家を修めて、それをもって仏家という大家庭が成り立つのです。法門が変化しつつあるのです。回向というのは誰が使ってもいいような法門ではありません。皆さんが読んでいるお経をお金にたとえれば、回向はボランティアでの寄付金みたいなものです。殊に「歴代の仇敵と債権者」に回向するのなら、全世界の人に寄付するようなものです。自分にはどれだけの財産があると思いますか。自分の家庭内では生活が成り立っていますか。また、自分の寄付金を全世界の人口で割ると、一人当たり一円以下の金額になるが、どんな効果が期待できると思いますか。だから、我々がお経を読んで、修行する際には、まず己自身を修めなければなりません。自分自身にある借りを返して、自分を強めて、それで自分の運が良くなるのです。自分の借りが全部返されて、トーテムがきれいにはっきりと見えるようになってからの修行で運を変えるのです。「借りが多すぎて一括で返すことができないから、とりあえず私の運を良くしてから、残りはその後で返済してもいいですか」と言うのなら、あなたの身にとり憑いた霊が承知しません。時がくれば業障がまた報いとして現れ、あなたに返すように迫ります。例外は一件たりともありません。つまり、勝手に回向を唱えてはいけません。個人の「飢餓問題」が解決される前に、身上の霊の済度と業障の返済が大事中の大事です。だから、適当な法を選ばなければなりません。法が適当なら、運が当分の間よくなっていなくても、修行すればするほど、確実に変化していきます。早く修行すれば、効果が早く得られ、自修自得です。修めない人には何も得られません。これはお湯を沸かすのと同じです。まだ沸いてはいませんが、水温は確実に高くなりつつあるのです。ただし、強火で一気に沸かす人もいれば、弱火(功力の限りによって)の人もいます。でも、あきらめずに続けていれば、いつか必ずお湯が沸く時が来ます。
もう一つの原因は経文の選び違いです。お経によって誰が読んでもいいというようなお経ではないのもあります。具体的に言うと、違うお経には違う効果があります。だから、我々は自分の状況によって適当な経文を選ばなければなりません。経文はまた大学の科目みたいなもので、同時にあまり多くの科目を習得しようとすると、却っていい成績が収められません。一つに限られた専攻でも、一年生は三年生の課程を履修してはいけません。選んだお経によって、違った道を歩むのです。同じように、基礎的なお経もあれば、ある程度のレベルに達しないと読んではいけないお経もあります。お経ならどれも同じというようなものではありません。この二つのことを頭に入れて、適当な法門によって済度し、借りを返すようにすると同時に、適当な経文によって自分の力を強めていけば、効果が現れるまでそんなに遠くはないでしょう。
次によくある誤解の一つを言います。その誤解とは「我々は回向を唱えるべきだ。つまり他人を助けることで、先に自分のことを思ってはいけない」ということで、実はこれは仏道に対する偏った理解です。確かに我々の修行の目的の一つは他人を助けることで、済度することです。その評価の重要な尺度は慈悲心の深さです。しかし、忘れてはいけないことがあります。衆生済度にはそれなりの力が要ります。洪水に流された人を助けるには、まず自分がしっかりしていなくてはいけません。自分の船が丈夫でなくてはいけません。大師たちがよく「放下」と言いますが、「放下」してこそ、心が清められ、静まるのです。でも、どうすれば手放すことになるのか。欲張るつもりはないが、家族を養う必要があるでしょう。これは盧先生が言うまず自分を救わなければならないということです。まず自分の家族を修めて、自分の家がよくなって、自分の「船」が十分丈夫になってから、他人を救うこと、助けることが出来るのです。さもなければ、自分の船が水漏れで危ないのに、人を助けるどころか、自分の命まで落としてしまうのです。あなたは衆生の一人であると同じように、あなたの家族も衆生のうちです。自分の家族を救うのも衆生を救うことなのです。
では、私たちの修行は、何を修行するのでしょうか。ほとんどの場合、多くのトーテムには霊や業障の存在で黒い気があります。長年病床に伏している人の場合、黒い気はトーテムの殆どの部分を覆ってしまいます。運気や事業に阻害のある人、不運の人は、トーテムに黒い気があるだけではなく、その周りにも黒い気があります。この周りの黒い気は阻害で、業障によるものです。いわばそれは交通信号が交通のコントロールをしているように、人の運を左右しています。幸運にあっても悪運にあってもこのように左右される状況があるので、幸運の中に悪運に転じる起因が潜んでいると言えます。これも「どこの家にも困ったことはあるものだ」と言われるわけです。運がいいと周囲から思われる人にも、思い通りにならないことがあるのです。適当な修行をしたら、二つの変化が生じます。トーテム自体がきれいで明るくなります。その周りの黒い気も薄くなって、周りに真っ白な雲が漂う可能性もあります。この二点だけでも人の運を変えさせます。トーテム自体が明るくなることは、自分自身のパワーが増えることで抵抗力が高まったことです。そのうえ、業障が取り除かれ、霊の貸しも期限内に全部返してしまいましたので、悪運状態下のトラブルなどをうまく乗り越えられます。同時に、幸運の期間を伸ばし、人生の道を広げることが出来ます。トーテムの周りの黒い気が薄くなったり、なくなったりすることは、その人が万事うまく運べるようになり、明るい未来が待っていることを意味します。だから、修行の第一歩は以上の二点を実行することです。
皆さんが修行し始めるころは、暗い中で模索しながら進むようなもので、どの道が正道で、自分が今歩んでいる道は正しいかどうか知らないという不安があります。時々「私は修行して何か得たのか」と疑問に思うでしょう。盧先生は皆さんと同じ道を歩んでいます。ただし、みなさんに比べてより高くより遠くまで見えるのです。だから、盧先生は暗闇の中の灯りになって、みなさんの前の道路と障害を照らしてあげたいのです。皆さんの精進の尺度を提供し、進む方向と進捗の程度を皆さんに注意するようにします。皆さんが前途や結婚問題について質問するのは反対しませんが、修行や精進についての活発な議論をしてほしいです。それこそ私たちが関心を持つべきことです。この文章が多数の修行者の疑問の答えになるのを祈っています。それで皆さんの心が清められ、よりよい修行になることを期待しています。
戻る